古事記が生まれる以前には
『帝紀』(ていき)
『旧辞』(きゅうじ・くじ)
といった
歴史書があったものの
真偽が入り混じったり
玉石混交の状態であったので
古代国家の基盤を固めるべく
国をあげて正統な歴史書をつくろう
となったのが
この『古事記』のコンセプトです。
◆
歴史の年表を見ると
<飛鳥時代>
538年 百済から仏教が伝わる
593年 聖徳太子が摂政となる
607年 法隆寺の建立
630年 初の遣唐使
<奈良時代>
645年 大化の改新
672年 壬申の乱
701年 大宝律令
708年 和同開珎の製造
710年 平城京(奈良)
714年 各地に国分寺がつくられる
<平安時代>
794年 平安京(京都)
◆
ここに『古事記』
そして『日本書紀』を入れると
<飛鳥時代>
538年 百済から仏教が伝わる
593年 聖徳太子が摂政となる
607年 法隆寺の建立
630年 初の遣唐使
<奈良時代>
645年 大化の改新
672年 壬申の乱
701年 大宝律令
708年 和同開珎の製造
710年 平城京(奈良)
712年 『古事記』完成●
714年 各地に国分寺がつくられる
720年 『日本書紀』完成●
<平安時代>
794年 平安京(京都)
こうして見ても
『古事記』『日本書紀』の完成は
古代国家の精神的支柱の完成であったと
位置づけられますね。
◆
『古事記』と『日本書紀』の違いですが
◎国内向けに
文学的なタッチで書かれたのが『古事記』
◎国外向けに
年代順に教科書的に書かれたのが『日本書紀』
という理解で大丈夫です。
なので
情感を用いながら読める『古事記』を
日本人は長く読み継いでいるわけです。
◆
中村啓信先生という
当時、國學院大學の教授が出された
『日本神話』という昭和53年発行の本から
(出版元は、今は亡き”おうふう”)
P.122を抜粋しますと
—(抜粋ここから)
天武朝以後にその遺志は継承され
持統・文武・元明・元正と続く天武皇統は
総力をあげて古代国家の完成を目標に
全エネルギーを費やした
—(抜粋ここまで)
ってことで
さっきの年表に
天皇を加えると・・・
<飛鳥時代>
538年 百済から仏教が伝わる
593年 聖徳太子が摂政となる
607年 法隆寺の建立
630年 初の遣唐使
<奈良時代>
645年 大化の改新(中大兄皇子→天智天皇)
672年 壬申の乱(天智天皇の子 VS 後の天武天皇)
673年 40代・天武天皇即位●
690年 41代・持統天皇即位●
697年 42代・文武天皇即位●(もんむ)
701年 大宝律令
707年 43代・元明天皇即位●
708年 和同開珎の製造
710年 平城京(奈良)
712年 『古事記』完成●
714年 各地に国分寺がつくられる
715年 44代・元正天皇即位●
720年 『日本書紀』完成●
<平安時代>
794年 平安京(京都)
・・・と、
天武皇統の位置づけが
よく分かります。
天武天皇の功績としては
◎『古事記』『日本書紀』の編纂(へんさん)
◎神道の整備
◎仏教の保護
◎初めて「天皇」を称号とした
◎初めて「日本」を国号とした
すっ、すごいですね!
この方が居なければ
今の日本はまた異なっていたかもしれません。
◆
先の『日本神話』には
—(抜粋ここから)
帝紀と本辞(=旧辞)、既に正実に違ひ
多に虚偽を加ふと。
今の時に当りて
其の失を改めずは
未だ幾年を経ずして
其の旨滅びなむとす。
斯れ乃ち、邦家の経緯、
王化の鴻基なり。
—(抜粋ここまで)
以上は天武天皇の言葉ですが
要するに
「ちゃんとした歴史書を作ろうぜ」
「それを国家の基盤として後世に語り継ごうぜ」
とおっしゃっています。
◆
更に
中村教授の解説。
—(抜粋ここから)
一連の古代律令国家建設事業の一環として
『古事記』は、天皇の絶対権力の確立と氏族再編成
そして国民教化の意図で
元明天皇和銅五年(712)正月28日に
成ったのである
—(抜粋ここまで)
◆
土着の先住民であった国津神に対して
渡来して国譲りを迫った天津神。
それを水平から垂直方向に
「天孫降臨」として説話化し
『古事記』の上巻には
天津神の大和神話と
国津神の出雲神話を
共存させて描いた。
相手を滅ぼして消すのではなく
神として祀り、後世にしるしを残す。(出雲大社)
う~ん。面白いですね~。
長くなったのでまた次回。